logo Kurai tokoro de machiawase (2006) 暗いところで待ち合わせ
 
 

Cast Kurai tokoro de machiawase (2006) 暗いところで待ち合わせ


「暗いところで待ち合わせ」(英題:Waiting in the Dark)として、2006年11月25日から順次全国公開。

キャスト
本間ミチル:田中麗奈
大石アキヒロ:チェン・ボーリン
三島ハルミ:井川遥
二葉カズエ:宮地真緒
ミチルの父:岸部一徳
松永トシオ:佐藤浩市
若木:波岡一喜

スタッフ
監督・脚本:天願大介
音楽:めいなCo.
主題歌:メレンゲ「underworld」
配給:ファントム・フィルム
撮影:古谷巧
照明:今野健
美術:稲垣尚夫
録音:矢野正人
編集:阿部亙英

福岡県久留米市出身。久留米市立上津小学校 → 久留米市立青陵中学校 → 西日本短期大学付属高等学校卒業。 5歳の時から既に女優を志し、小学校6年生の時から実際にオーディションを受け始める。そして、中学2年生の時に、父親の紹介で福岡のモデル事務所「レイ・ワールド」に所属。数々の九州ローカルCMに出演を果たす。 上京願望が非常に強く、中学卒業と同時にすぐにでも上京したかったが、「高校を卒業するまでは家を出てはいけない」と親に強く反対された。 高校に入ってから東京での仕事が急激に増えたが、親との約束を守り、高校卒業直後の1999年3月に上京した。それまでは毎週、東京と久留米を往復しながら芸能活動をしていた。
1998年に放送されたサントリーのジュース・なっちゃんのCMの初代キャラクターで人気を集めた。(2001年までこのCMシリーズが放送された。その後は同社のビール類のCMに出演していたが、2005年3月放送のCMで4年ぶりに復帰した)1999年末には荒井注を含むザ・ドリフターズの面々が揃った写ルンですの2000年正月用七福神のCMで共演。荒井が2000年2月に逝去したためドリフターズ新旧面々の揃った映像はこれが最後となり、いかりや長介の著書「だめだこりゃ」にも紹介されている写真の中に田中も写っている。人気が出てからも、テレビドラマへの出演やバラエティ番組の参加は、ほんの数本しかなかったが、2006年あたりから映画の番宣のフィルム出演としては、バラエティ番組の顔見せも目立ってきている。しかし、主としては引き続き映画(フジテレビが制作に携わっている作品が多い)かCMでの活動が中心。数々の賞を受賞し、その演技力には一目置く映画監督も多い。*2006年、主演映画『暗い所で待ち合わせ』で孤独な盲目女性役として、実力派女優ならではの迫真の演技を披露した。この映画で共演したチェン・ボーリンとは同年『幻遊伝』でも再度共演した。さらに同年広島原爆をテーマとするこうの史代作の漫画・『夕凪の街 桜の国』に惚れ込み同作の映画化に出演を熱望。今までで最も社会性の強い作品のヒロインを演じる。また、同年11月8日発売の、melody.が歌う『Lovin' U』のカップリング曲『Our Journey』を、melody.との共同で制作した。
2007年には、『ゲゲゲの鬼太郎』初の実写映画で妖怪(正確には半妖怪)の猫娘を好演し、改めて女優として色々な役に積極的に挑戦する姿勢を見せた。ここ近年海外への進出にも力を入れている。

チェン・ボーリン

映画デビューは、2003年の台湾・フランス合作映画『藍色夏恋』の主演である。この映画は、カンヌ国際映画祭、東京国際映画祭などに公式出品され、絶賛される。 その後も、『最後の恋、初めての恋』『アバウト・ラブ』などで好演、高い評価を得る。

日本での活動も精力的に行っており、『シュガー&スパイス~風味絶佳~』や『暗いところで待ち合わせ』といった日本映画への出演の他、テレビ朝日『いきなり!黄金伝説。』の企画でCDを出したり、日本たばこ産業の烏龍茶の広告にも出演した事がある。

2006年8月には、imode、EzWeb、Yahoo!ケータイの公式コンテンツとして「チェン・ボーリンmobile」が開始された。

1967年2月5日、ザ・タイガースのベーシストおよびリーダー、岸部修三(きしべ・おさみ)としてシングル「僕のマリー/こっちを向いて」でデビュー。愛称は『サリー』。B面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダースに次ぐ新世代GSとして大人気を博し、ボーカルの沢田研二やドラムスの瞳みのるのアイドルとしての大ブレイクとも相成って「GSの王者」と呼ばれる大人気グループに成長。「ショーケン」こと萩原健一がボーカルに在籍するザ・テンプターズと人気を二分した。

ザ・タイガース在籍時にはベーシストとしてのみならず、GS界では唯一とも言える本格的なバリトンコーラスで聴衆を魅了した。タイガース時代のみならず、のちのPYGや井上堯之バンド時代を通して、岸部のコーラスは沢田研二のボーカルを引き立てるために欠かせないエッセンスであった。

当時のザ・タイガースのファン層は10代の少女が中心だったこともあって少女の人気は沢田や瞳に集中し、面長で大人びた雰囲気だった岸部の「アイドル」としての人気は伸びなかったが、一方では男性ファンが多く付き、アーティスト志向のミュージシャンたちの間での評判も当時から高かった。またリーダーとしても沢田をはじめメンバーから厚く慕われており、例えばベトナム戦争が激化していた当時に行われた雑誌インタビューに於いても、「一番怖いものは何?」との質問に他のメンバーが「戦争」「武器」などと答えている中で岸部ひとりが「人の心」と答えているなど、当時から、現在の「俳優・岸部一徳」としてのキャラクターに通じる落ち着いた大人の風格を覗かせていた。

岸部は、メンバーの中でもかなりの音楽通として知られていた。当時、アメリカに滞在していた弟の岸部四郎からの最新音楽情報もあり、タイガースのステージでのレパートリーは主に岸部が選曲し、ギターの森本太郎がアレンジをするといった形で決められていった。

1969年には、メンバーの加橋かつみの脱退を受けて岸部四郎を帰国させ、新メンバーとして加入させる。そして1970年には岸部四郎(通称シロー)と兄弟ユニット『サリー&シロー』名義でアルバム「サリー&シロー トラ70619」もリリース。1971年1月24日、日本人アーティストとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってザ・タイガースを解散した。

1971年4月、元ザ・タイガースの沢田研二、元ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、元ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之らとPYGを結成。シングル「花・太陽・雨/やすらぎを求めて」でデビュー。岸部が本当にやりたかった音楽=ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンスタイルのハードロックバンドを目指すものの、事務所の兼ね合いで思うような音楽ができず、また萩原健一が俳優として認められはじめたため、PYGから萩原健一を除いたメンバーで沢田研二と井上堯之バンドと名乗り、この形態での活動が多くなる。1972年中盤からは萩原健一が主演した太陽にほえろ!がヒットし、音楽活動への参加が難しくなったためPYGは事実上解散。沢田研二と萩原健一を除いたメンバーで「井上堯之バンド」として独立する。

その後井上堯之バンドのベーシストとして、沢田研二のバックバンドや萩原健一主演作品のサントラを中心に活躍。各種音楽誌の人気ベーシスト投票でトップ3の常連になるなど人気ベーシストの地位を築く。ピック弾きながら指板を最大限に多用したメロディアスなベースラインとボトム感のある力強いベースプレイで定評がある。しかし、メンバー間の人間関係などが複雑化し、遂に1975年6月19日の鶴見市民会館「沢田研二コンサート」をもって井上堯之バンドを脱退し、音楽活動を停止する(岸部自身は、音楽的に向上する努力をしなくなったため、とも語っている)。

ちなみに、現在日本を代表するベーシストとして有名な後藤次利にベースギターの手ほどきをしたのは彼である。

また、日本公演のため来日していたレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズが、TVで観た岸部のプレイに感動し、しきりに会いたがっていたという逸話もある(1981年、「プレイヤー」誌のインタビューより抜粋---「初めて日本に行ったとき、『PYG』という日本のバンドをテレビで見た。そして、俺たちの『I Gonna Leave You』をやっていたんだ。ボーカルは冴えない奴だったが、ベースの奴はとんでもないスゴ腕でね。俺よりもいいんじゃないかと思ったぐらいだ。会いたがったが結局会えずじまいだった。のちにテツ(山内テツ)に会った時に『あれはお前か』と聞いたんだが、テツではなかったらしいよ。・・・・」)。

1975年、沢田研二が主演し大ヒットしていた、三億円事件を題材にしたTVドラマ『悪魔のようなあいつ』に出演、本格的に俳優に転身する。1979年には、同じ所属事務所だった樹木希林の命名で、「岸部おさみ」から「岸部一徳」へと改名する。

1990年映画「死の棘」にて、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞など数々の賞を受賞。数々のドラマ作品やCMに出演し、名脇役と呼ばれている。

初期の「太陽にほえろ!」メインテーマでベースギターを弾いているのは彼である。今もそのベースの腕前は衰えておらず、木村拓哉、Charと共演した富士通のCMでも久々にすばらしい腕前を披露した。また1997年には元ザ・タイガースの沢田研二、森本太郎とともにロックユニット「TEA FOR THREE」を結成(現在活動休止中)。

弟の四郎が借金で苦しんでいるとき、四郎に一銭も貸さなかった。これには借金問題が深刻化していた際森本太郎にも迷惑をかけた(「森本の個人事務所の経営破綻は四郎のせいだ」と森本がさる雑誌インタビューで談話)ことに一因あったからとされる。

 

 
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